■ドラゴンクエスト3(一)

ドラクエの“良さ”とは何か。それを端的に表すことは僕には無理です。ありすぎて。

オマケに、その良さというのが、個人の表現力の乏しさや語彙の貧困さを差し引いても何だか抽象的かつ感覚的でよく分からんものが多いように感じるので、すべてを一度に表そうとすると必ず失敗する自信があります。

そこで今回は、ドラクエの良さを包括的に答えることはできないまでも、その一端なのではないかと思うことについて、3をベースに書かせてもらおうと思います。何故3なのか。それは3が3だからです。

※以下、過去に他所で書かせてもらった文章を改編したものです。

■3のストーリー

3はドラクエの中でも名作と呼ばれ、シリーズ屈指の人気を誇る作品です。3のストーリー面での評価で僕がよく目にするのが、

“1,2と続いてきたロト伝説に纏わる一連の謎が明かされて感動した。”

というものです。つまり、1と2が伏線になっており、3によって三作にわたる壮大な物語の謎が解き明かされ、その開放感によって大きな満足感を得た、ということでしょうか。伏線を上手く張って上手く回収するというのは、驚きと感動を与えるための常套手段であり、3ではそれが上手になされているために高い評価を得ているということなのでしょう。

しかし、3のストーリーの優れた点はそういった一時的な驚きだけにあるのでしょうか。二周目以降のプレイだろうと、1や2があろうとなかろうと何ら色褪せない普遍的な素晴らしさが、3にはあるように思えてなりません。その理由の一つとして、扱っているテーマが挙げられると思います。

■3のテーマ

では3のテーマとは何かですが、それはおそらく“善悪の問題”です。

善悪だなんて言うと青臭く陳腐に聞こえるかもしれませんが、人類が善悪とは何かについて大昔から考え続けてきたということは事実ではないでしょうか。そして、未だ万人とっての答えが出ていないということも。

それは当たり前と言えば当たり前ですし、ずっと答えは出ないものなのかもしれません。それにも拘らず考え続けられているのは、善悪を定義することが(あるいは定義しようと試みることが)人間にとって必要だからであり、イコール人間にとって普遍的なテーマの一つであると言える気がします。

普遍的なテーマを含んでいること。これが3に普遍的な素晴らしさを感じる一つの要因だと思われます。ただ、もちろんそれだけではありません。善悪を扱っている作品なんて、それこそ至る所に氾濫しているからです。そして、その全てが名作かというと、好みの問題はあるにしても首を傾けざるを得ません。

それでは3は何が違うのでしょう。もし駄作と名作を分かつ何かがあるのだとしたら、それは普遍的テーマを題材としたストーリーを、どう描くかだと思います。3のそれは非常に巧みなのです。では、その描き方とは何なのかですが、その前に、3における善悪そのものについて書かせてもらいます。

■3の善悪

ドラクエは4を除いて勧善懲悪のストーリーであると言われることが多く、それは3も例外ではありません。つまり、善の主人公が悪の魔王を倒すという構図ですが、僕は疑問を感じます。4が勧善懲悪でないなら、3も勧善懲悪でないと思うからです。逆に言えば、3が勧善懲悪ならば、4も勧善懲悪だということ。その理由は、3の魔王であるゾーマにあります。

《魔王論》

上記のように僕に思わせてくれたのは、CrownArchiveに掲載されている魔王論です。魔王論と出会って、僕の中のドラクエ観は一変しました。3は単純な勧善懲悪ストーリーだと思っていた、というか特に何も考えず楽しんでいた僕に、ドラクエって凄いなと改めて感じさせてくれたのです。本当に感謝しています。ありがとうございました。

魔王論の一部を僭越ながら簡単に紹介させていただくと、ラダトームの剣士が語る、

*「まおうは ぜつぼうを すすり
  にくしみをくらい かなしみの
  なみだで のどをうるおすという。

という話と他のさまざまな理由から、

ゾーマとは人間の絶望や憎しみ、悲しみを主食とする存在なのではないか。

とするもので、そう考えれば一見意味不明な魔族の行動にも合点がいくという話なのですが、詳しくはCrownArchiveに赴いてみてください。

さて。ここでは魔王論が正しいとして話を進めさせてもらいますが、そうするとゾーマとはいったい何なのでしょう。ゾーマにとって人間の絶望、憎しみ、悲しみが主食だとすると、人間を絶望させ憎しみや悲しみに包まないことにはゾーマは生きられない存在だということになります。つまり、ゾーマは自身が生きるために人間を苦しめている側面があるということ。

そう考えた場合、ゾーマはやはり悪なのでしょうか。もちろん人間にとって害をなす存在であることは確かです。しかしゾーマが悪だとすると、人間を含め多くの生き物が悪となることも事実でしょう。何かの犠牲なしに存在できないという点では、なんら変わりません。物語を俯瞰的に見た場合、何が善で何が悪なのか、よく分からなくなってきます。これは、4の物語と何か違いがあるでしょうか。

《勧善懲悪》

じつは勧善懲悪ストーリーの定義がイマイチ分からないので、ここではテキトーに次のように決めさせてもらいます(当ウェブサイトはいい加減がモットーなので)。

  1. 物語上で善側と悪側が決まっており、善が悪を倒すストーリーは勧善懲悪。
  2. 物語上で善側と悪側が決まっており、善が悪を倒すストーリーだが、
    悪側に大義名分が存在する場合は勧善懲悪でない。

一に従った場合、3も4も勧善懲悪ですが、二に従った場合、3も4も勧善懲悪ではありません。4のデスピサロに大義名分があるように、3のゾーマにも大義名分があるからです。

このように、3と4のストーリーは、どちらか一方が勧善懲悪で、どちらか一方がそうでないという分け方は不可能に思えます。しかし、前述のとおり実際には分けて語られることがしばしば。その原因は、両者の善悪の描き方が違うからです。

■3の善悪の描き方

4が勧善懲悪でなく、3が勧善懲悪だと言われるのは、ゾーマの大義名分がハッキリと描かれていないからに他なりません。魔王論で紹介されている剣士は、ラダトームの町をうろついているだけで特別なイベントに絡んでくることは一切ないのです。

つまり、ゾーマのことを聞くためには、能動的に彼に話しかける必要があるわけです。そして、それを聞いた上でCrownArchiveの管理人さんのように彼の台詞を注視しなければ、ゾーマがどんな存在かということにまで中々考えが及ばないでしょう。何も聞かず何も考えなければ当然ゾーマは只の悪となり、3は勧善懲悪ストーリーになります。

このストーリーの描き方はドラクエの特徴だと思います。言わば演出しない演出です。そして、この演出方法には大きなメリットがあります。

■演出しない演出

演出しない演出のメリットとは何か。それは行間が増えることです。あえてハッキリと描かないことで、いろいろと想像の余地が生まれるのです。

たとえば、ゾーマがドラクエ以外のRPGのボスだったとするとどうでしょう。ゾーマの性質なり立場なりがそれと分かるイベントによりプレイヤーに誇示され、それに対する主人公側の考えを描き、最終的には勇者たちが出した答えという形でプレイヤーに何らかの正解を見せてからゾーマを倒し、エンディングへ向かうと思います。

対して、ドラクエは何かを提示するだけ。そこにどんな問題を見るか、それに対してどう考えるか、その大部分をプレイヤーに委ねているのです。

ドラゴンクエスト3(二)に続く

UP:10/08/28
こんなのっぱら

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