■ドラゴンクエスト3(二)

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■勇者とゾーマ

勇者とゾーマ。魔族を倒すことを望まれ育てられた者と、人間を苦しめるために生まれ出た存在。正反対の立場をした両者ですが、宿命的に相容れない相手を持ち、どちらか一方が存在する限り、もう一方は存在できないかのような運命を背負っている点では、とても似た境遇をしています。勇者とゾーマは、いったい何を思い、何を考えていたのでしょう。

《勇者》

旅に出て、バラモスを倒し、アレフガルドへ降り立った勇者にとって、魔王を倒して平和を取り戻そうとする行為は自然なことだったはずです。その中に何か変化があったとすれば、それはやはり、くだんの剣士の話を聞いてからのことでしょう。

ゾーマという存在について、勇者が魔王論のように考えたとするとどうでしょう。自分はゾーマを悪として討っていいのかという迷いが生じた可能性はあると思います。本質的には自分たちと同じ存在を倒さなければ得られない平和というものに対しても、疑問を感じたかもしれません。

しかし、勇者はゾーマの城へ向かいます。この時点で、既に迷いを吹っ切っていたのかもしれませんが、躊躇いを抱えながらやってきた可能性もあるでしょう。ですが、そんな勇者にオルテガの死が突きつけられます。この出来事は、勇者の心境にどのような影響を与えたのでしょうか。そして、勇者はゾーマと対峙することになります。

《ゾーマ》

ゾーマには勇者と違って台詞があります。それを見てみましょう。

ゾーマ「○○○○よ!
  わが いけにえの さいだんへ
  よくぞ きた!
ゾーマ「われこそは すべてを
  ほろぼすもの!
ゾーマ「すべての いのちを
  わが いけにえとし ぜつぼうで
  せかいを おおいつくしてやろう!
ゾーマ「○○○○よ!
  わが いけにえとなれい!
ゾーマ「いでよ わが しもべたち
  こやつらを ほろぼし その
  くるしみを わしに ささげよ!

これは、ついに自分の元へと辿り着いた勇者に対するゾーマの言葉です。魔王論に従えば、自らの生のために世界を絶望で覆うと言っているように聞こえます。ところが、三体の魔物を退けた勇者に、ゾーマは次のように言ってきます。

ゾーマ「○○○○よ!
  なにゆえ もがき いきるのか?

この言葉は、勇者に向けられたものですが、同時にゾーマ自身にも向けられたものに思えます。繰り返しますが、生きるためには他の何かの犠牲が必要です。そのことに何かしらゾーマ自身が絶望を感じていたとしたら。そこまでして生きる理由は何か。他に犠牲を強いてまで、生きる意味はあるのか。それを問うているように聞こえなくもありません。

上で勇者とゾーマは似た境遇だと書きましたが、ゾーマの方が生きている限り抗えない運命であることを考えると、より切実だとも言えます。そんなゾーマの言葉だからこそ、そこには重みが感じられます。

こう考えた場合、最初に見たゾーマの言葉は、魔王というものが人間の敵であることを勇者に改めて認識させ、怒りを煽り、自らに対してけしかけているようにも思えないでしょうか。次の言葉と共に。

ゾーマ「ほろびこそ わが よろこび。
  しにゆくものこそ うつくしい。
ゾーマ「さあ わが うでのなかで
  いきたえるがよい!

《ゾーマ:決戦後》

自分を倒した勇者に、ゾーマはこう言います。

ゾーマ「○○○○よ……。
  よくぞ わしを たおした。

これは、まるで勇者に倒されることを望んでいたかのような言葉です。そして、

ゾーマ「だが ひかりあるかぎり
  やみも また ある……。
ゾーマ「わしには みえるのだ。
  ふたたび なにものかが やみから
  あらわれよう……。
ゾーマ「だが そのときは おまえは
  としおいて いきては いまい。
  わははは………っ。ぐふっ!

これは他の魔王に見られるような、ただの捨て台詞ではありません。最期まで人間にとっての悪に徹しながら、頑なに平和を求める勇者に対して此の世の理を説き、警告をしているように聞こえます。お前が求める平和は存在しない、それが現実だというように。そして、ゾーマの言葉どおり、平和は失われます。

ゾーマは世の不条理を知りながらも、自分の存在とそれに伴う境遇の全てを受け入れている感があります。物語上では悪という立ち位置にいますが、ゾーマが悪なら他の存在も大体が悪だということは、前述したとおりです。

しかしながら、それに対してゾーマは何も言及しません。自分という存在を嘆くこともないし、自分の行為を正当化することもしないのです。ただ生き、ただ死んでいく。それが言いようのない崇高さを漂わせているように感じます。ここまで潔く、そして悲しい魔王は他にありません。

《勇者:決戦後》

旅する中で出会った多くの人々。数え切れないほどの魔物との戦い。オルテガの死。そういったものを胸に、勇者はゾーマを倒したであろうと思います。そこには、理想とはあまりにかけ離れた現実に対する怒り、悲しみ、あるいは諦観、そういった理屈ではどうにもならない何かがあったように感じます。

ゾーマを倒した勇者は、ある意味では自分を殺したとも言えます。その心中は如何様なものだったのか。エンディングの後、皆の前から姿を消したことに何か見ることはできるかもしれません。

■魔王と人間

人間は良い面もあれば悪い面も沢山持っていて、悪の面は往々にして人間の負の感情とも言えるべきものを生み出し、それは魔王の糧になります。つまり、人間がいる限り魔王もまた存在するということで、もっと言えば、人間が魔王を存在させているということです。魔王とは人間の中にこそ存在していると言い換えることも可能かもしれません。

そして、ゾーマの言葉にあるように、それは永遠に無くなることはないのでしょう。しかし、人間の中の魔王的な面をなくす努力に意味はないと、ドラクエが言っているわけではありません。多くの勇者たちがしてきたように、その努力は必要なのだと思います。

ドラクエは様々なエピソードとして人間の魔王的な部分を見せてくれます。それらの現実を目の前にしながら、それでも勇者は世界に平和を取り戻すため魔王に戦いを挑みます。人間の魔王的部分が具現化したものがドラクエにおける魔王なのだとすれば、ドラゴンクエストは人間の中に巣くう魔王を打ち倒す物語であると言えるかもしれません。

が、もちろん本当のところは分かりません。僕が魔王論を読んで、もしかしたら3ってこういう話だったのかなと勝手に思っているに過ぎませんし、全然違うかもしれません。僕なんぞがゾーマの心情を文字にするなど、本当は無粋な行為に他ならないのです。

ただ、いろいろ想像できるとだけ書いても何のこっちゃなので、あるいはこういうことも考えられるかもと一例を挙げさせてもらったというだけです。あんなのは寧ろ違えばいいという気もしますし、ハッキリして欲しくもありません。重要なのは、想像を膨らませることができるだけの材料がそこにあるということです。

■おわりに

ドラクエのシナリオは低年齢層向きだと言われることがあります。事実小さい子でも楽しめる話の流れですが、もしレベルの低いシナリオだという意味ならそれは間違っているように思います。単純なシナリオに見えてしまうのは、上で書いたように、近年見られる多くのRPGとは違った独特の演出方法だからに他なりません。一見陳腐に思えたとしても、その裏には他作品に勝るとも劣らない数々のメッセージが込められているはずです。

あえて語らないその演出方法は、前述したとおり多くの解釈を生み出し得ます。それは考え方を強制しないということであり、多くの人が楽しめる要因の一つにもなっている気がします。想像は膨らむものの本当のところは表に出てこず、答えがないから常に新鮮味を感じることもできます。小さな子供でも十分に楽しめるし、年齢を重ねた頃にはまた別の物語になって迎えてくれます。これが、僕の思うドラクエの良さです。

了

UP:10/08/28
こんなのっぱら

―DRAGON QUEST FAN SITE―

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